音の見える風景 Chapter55 「トニー・ウイリアムス」 

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photo&text by 望月由美
撮影:1966年11月3日 サンケイホールにて

 

トニーはメンバー全員をやたら燃え上がらせるんだ。
トニーがいるこのバンドじゃなんでも望みとおりの演奏ができた。
いつもトニーがバンドのサウンドの中心だった。

マイルス・デイヴィス(tp,1926~1991,65歳没)は自叙伝(マイルス・デイヴィス、クインシー・トループ著 中山康樹訳 宝島社)のなかでこのようにトニーを誉めたたえている。

トニー・ウイリアムス(ds)は1945年12月12日シカゴ生まれのボストン育ち。
トニーの父親はサキソフォン奏者で、トニーが幼いころから自分の出演しているクラブに連れて行き演奏を聴かせ、またドラムも叩かせてくれたので、そういう場でトニーはドラミングの基本を身に着けていった。

そして11歳でアラン・ドウソン(ds, 1929~1996, 66歳没)から教えを受け、その翌年にはアラン・ドウソンのトリオと一緒に演奏するレベルにまで達していたというからトニーは子供のころから並はずれたセンスの良い感性の持ち主だったのだろう。

こうしてアラン・ドウソンやサム・リヴァース、ジャッキー・バイアード等と共演を重ねボストンでは名前が知られる存在になっていった。

ボストンのクラブでトニーを聴いたジャッキー・マクリーン(as, 1931~2006, 74歳没)は1962年のクリスマスにトニーをニューヨークに呼びよせる。
そしてその翌年の1963年4月には 『ワン・ステップ・ビヨンド』(Blue Note,1963)のレコーディングにトニーを抜擢する。
このころのマクリーンは最も先鋭的な活動をしていた時期でグレイシャン・モンカーⅢ(tb)やボビー・ハッチャーソン(vib, 1941~2016,75歳没)などその後のトニーの活動に大きな影響を与えるミュージシャンが参加している。

マクリーンのもとでプレイしているトニーにいち早く注目したのがマイルス・デイヴィス。
マイルスとマクリーンは1951年のマイルスの有名な『DIG』(PRESTIGE, 1951)のセッションで共演している親しい間柄だったのでマクリーンのライヴでトニーを聴いたマイルスは直ちにトニーを俺のバンドに入れたいとマクリーンに申し入れ、マクリーンも了承しトニーはマイルスのクインテットに入ることになる。
どの世界もボスの吸引力は強力である。

そして1963年5月マイルスの『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』(CBS, 1963)の録音からトニーは参加する。
マクリーンの『ワン・ステップ・ビヨンド』の録音からわずか2週間後のレコーディングであり、この時トニーはわずか17歳の少年であった。
当時の写真で見るトニーの口髭は年齢を成人に見せるためのものだったのかもしれないが、なにかを内に秘めた青年を印象づけるのにも効果的に映った。

トニーはそのすさまじいパワーと圧倒的なスピードと変幻自在のテンポ、フリーの一歩手前、ぎりぎりのフォー・ビートでマイルス・クインテットに新たな推進力と可能性を与えた。

ここからマイルスのニュー・クインテットの快進撃が続く。
はじめに国内ツアーを行ったあと7月にはフランスに楽旅しアンティーヴ・ジャズ祭で演奏『Miles Davis in Europe』を録音、更に帰国後の1964年2月12日にはリンカーン・センターのフィルハーモニック・ホールで『MY FUNNY VALENTINE』、『FOUR & MORE』(CBS,1964)の2枚を残している。
ここでの疾風のようなスピードと緊迫感を前面に出したトニーのドラミングはマイルスから火を吹くようなハード・ブローイングを引き出している。

トニーはこのリンカーン・センターのコンサートの2週間後の1964年2月25日にはエリック・ドルフィー(as,bcl)の 『OUT TO LUNCH』(Blue Note,1964)に参加、まさに上り坂をまっしぐらに上っていた時期である。

そしてこの勢いを駆って1964年7月に来日、『MILES IN TOKYO』(SONY, 1964)を記録している。

当然のことながらボス、マイルスの仕事が入っていないときは、メンバーはそれぞれ自分の活動をするわけであるがトニーも1966年11月に「3大ドラマー」の日本ツアーで再来日する。
アート・ブレイキー(ds)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)にトニーというまさに最強のドラマー3人が同じステージに立つというもので、プロモーターからの案内状には「史上初の激突、豪華決定版!! 世紀のドラム合戦」と銘打たれていた。
フロントにはウエイン・ショーター(ts)、ジミー・オーエンス(tp)、ピアノがマッコイ・タイナー(p)、ベースがベン・タッカー(b)というぜいたくな顔ぶれがステージに立った。

写真はその時のものでトニーはまだ20歳、シンバルの端から垣間見た顔には初々しさが残っていた。
因みにこのツアーの途中でトニーの大麻所持が発覚、そのとばっちりでエルヴィン・ジョーンズにも嫌疑がかかり、結局はえん罪であったが裁判のためエルヴィンは数か月のあいだ日本に足止めされ、新宿ピットインでの伝説のエルヴィン・セッションが毎週末に繰り広げられ日本のジャズを大きく進展させることにまでなるという副産物をもたらした。

トニーはマイルスのクインテットが1968年末に解散するまで在籍し『プラグド・ニッケル』(CBS,1965 )、『マイルス・スマイルズ』(CBS,1965) 『ソーサラー』(CBS,1967)、『ネフェルティティ』(CBS,1967)、『ウォーター・ベイビーズ』(CBS,1967~1968)等々のレコーディングで重要な役割を果たしている。
また、退団後の1969年2月の『In A Silent Way』(CBS,1969 )のレコーディングにも呼ばれている。

マイルス在籍中もさまざまなセッションに顔を連ねているが1965年の3月に参加したハービー・ハンコック(p)の『Maiden Voyage』(Blue Note,1965)はその後の「V.S.O.P」への足掛かりとなるメンバーが集っていた。
ハンコックにトニー、ロン・カーター(b)というマイルスのリズム・セクションにフレディー・ハバード(tp)とジョージ・コールマン(ts)のフロントという構成はジョージ・コールマンがウエイン・ショーター(reeds)に代われば「V.S.O.P」そのものである。

「V.S.O.P」(Very Special One-time Performance)の始まりは1976年6月29日、ニューポートジャズ祭の一環としてニューヨーク・シティ・センター・ホールで行われた「ハービー・ハンコックの回想」と題したハンコックのコンサートで、マイルスの代わりにフレディー・ハバード(tp)を立て、ウエイン・ショーター(ts)、ハービー、ロン、トニーの5人が顔をそろえたもので、一夜かぎりのセッションのつもりだったがあまりにも好評だったためプロモーターのデヴィッド・ルービンソンが全国ツアーを計画すると、あっという間に25日間のすべてがソールド・アウトになってしまい、そのまま人気コンボとして活動を継続することになったという。

1977年7月23日の朝8時、トニーは羽田空港に降り立ち、東京田園調布の田園コロシアムへと向かう。
そしてその日の午後2時と夜6時「V.S.O.P」は第1回「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」のステージに立つ。
黄色いジャンプスーツに身を固め黄色いドラム・セットを叩くトニーはコロシアムに熱狂の渦を巻き起こす。
そしてトニーは翌24日ロンドンへと旅立った。
たった1日の滞在は当時のトニーの忙しさを物語っている。
この日の模様は『TEMPEST IN THE COLOSSEUM』(SONY,1977)として記録されている。

マイルスから独立してからのトニーはジョン・マクラフリン(g)、ラリー・ヤング(org)とトリオ「LIFE TIME」を結成、ジャズとロック、ブルース、ファンク等を融合したフリー・ミュージックを展開、その過激さで注目を浴び、1969年5月に『Emergency!』(Polydor,1969)の発表でジャズ&ロックの火をつけた。
トニーはジャズもロックも同じように吸収してプレイに反映していてその境を自在に行ったり来たりと変幻自在であった。

1975年の春、ハンク・ジョーンズ(p, 1918~2010,91歳没)、ロン・カーター(b)、トニーの3人は「ヴィレッジ・ヴァンガード」に1週間出演した。
トニーがリクエストをしてのセットでこのときに「ザ・グレイト・ジャズ・トリオ」を初めて名乗ったとされている。

その翌76年の春、渡辺貞夫(as)は単身渡米し3人とレコーディング、『アイム・オールド・ファッション』(EAST WIND,1976)を発表する。
ジャケットにはSadao Watanabe with The Great Jazz Trioとうたわれ、翌1977年5月には本田竹曠もニューヨークでGJT と『ANOTHER DEPARTURE』(FLYING DISK,1977)を録音するなどGJTの愛称が広く知られるようになった。

1977年の2月、再び「ヴィレッジ・ヴァンガード」に立ったGJT、メンバー紹介はトニーが担当しチャーリー・パーカーの<ムーズ・ザ・ムーチ>からスタート。
トニーのきびきびしたリズムにのってハンク・ジョーンズが軽やかで清新なソロをとりトニーがそのあとを引き継ぐ。
カラッとかわいたスネア、宙を舞うシンバル、ドドッ、ドドッと響くバスドラが眼の前に迫ってくる。
エンジニアはデイヴィッド・ベイカー(1945~2004,58歳没)、『The Great Jazz Trio At The Village Vanguard』(EAST WIND,1977)の誕生である。

1980年ごろからトニーは作編曲の勉強に力を入れ、多くの時間を注いでいる。
そして1985年に自己のグループを結成し精力的に活動を始め、自作曲を中心にその成果をブルー・ノート・レーベルから次々と発表する。

トニーの結成したニュー・グループはマイルス・クインテットや「V.S.O.P」と同じ2管プラス3リズムというクインテットが基本で、ウォレス・ルーニー(tp)やドナルド・ハリソン(reeds)、ビル・ピアース(reeds)といったアート・ブレイキー(ds,1919~1990,71歳没)出身者を数多く登用している。
ブレイキーは昔から新人の養成所だったことがここでも証明される。

1992年2月から3月にかけてトニーのクインテットは日本でコンサート・ツアーを行うがその際のブルーノート東京でのライヴが 『Tokyo Live』(Blue Note,1992)として残されている。
メンバーはウォレス・ルーニー(tp)、ビル・ピアース(reeds)の2管にトニー(ds)、マルグリュー・ミラー(p)、アイラ・コールマン(b)の5人で収録曲の全12曲中11曲がトニーの曲であった。

そして1996年の9月、トニー(ds)、マルグリュー・ミラー(p)、アイラ・コールマン(b)の3人はソニーのプロデューサー伊藤八十八(Sony~eighty-eight,1946~2014,68歳没)の企画でソニーの信濃町スタジオに集まってレコーディングを行う。
アルバム『Young At Heart』(SONY,1996)はDSD録音の先駆けとしてオーディオ界でも評判になったがはからずもトニーのラスト・アルバムとなった。

1997年2月、トニー・ウイリアムス(ds)は胆嚢の手術をうけるが、その際におきた予期せぬ心臓発作により51歳という若さで、カリフォルニア州デイリー・シティで命を落とした。

これだけは間違いなく言える。彼のような奴は、後にも先にも、一人もいない。本当にただただすごかった…マイルス・デイヴィス(自叙伝より)

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望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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