音の見える風景 Chapter 59「ジョセフ・ジャーマン」 

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撮影:1989年9月27日 六本木ハートランドにて

photo&text by Yumi Mochizuki 望月由美

1989年9月27日 六本木ハートランドにて

ジョセフの音そして温かいハートとスマートな人となりは今でも心の内に鮮明に残っている。
そのジョセフの写真が未整理の写真ケースから数百枚現われ、レコーディングを含めた1か月間、行動を共にした懐かしい記憶がよみがえった。

ジョセフを単独で日本に呼ぼうと思い立ったのは1989年、ダグラス・ユワート (reeds)と “SABU” 豊住(ds) のとトリオを聴いてそのサウンドの豊かさに感動しほとんど衝動的に招へいを決意してジョセフとの交渉を始めたのである。
初めての海外アーティストの招へいで分からないことだらけで、現 Jazztokyo の編集長稲岡さんにワーキング・ビザの取得から契約書の査閲にいたるまで大変にお世話になりやっとの思いで実現にこぎつけた、今でも感謝しています。

そして1990年の4月28日1通のファックスが届いた。
ジョセフ・ジャーマンからのジャパン・ツアーのスケジュール確認であった。

AEOC (Art Ensemble of Chicago) やダグラス・ユワート (reeds) とは何度か来日していたジョセフであるが単身では初めてであった。
沢山の楽器群は板谷博 (tb,1947~1996 48歳没) に車を運転して運んでもらった。

ジョセフは旅の疲れもいとわずその翌7日からミーティングとリハーサルを重ね10日に横浜「エアジン」のステージに立った。
ジョセフのリードに齋藤徹 (b)、栗林秀明  (筝)のトリオが日本での初ステージであった。

1990年6月15日 札幌ヤマハホール

この前の年1989年にはシカゴAACM (Association for the Advancement of Creative Musicians) の重鎮ダグラス・ユワート(reeds)との2管でシカゴ派としての一面を見せたが今回はベースと筝という弦楽器との組み合わせを選択して全く趣の異なる世界を見せてくれたのである。
ここから名古屋、札幌、旭川、町田、江の島、高崎、東京では新宿ピットイン、六本木・ハートランド等々の1か月にわたるジャパン・ツアーが始まり、その全スケジュールに帯同したが、ヘヴィーであると同時にジョセフのヒューマンな人柄と真剣に音楽に向き合うアーティスティックな姿勢に触れ合うという貴重な旅であった。

今回のツアーでジョセフは日本の伝統、とくに仏教に深い興味を抱いていたので日本の伝統的な楽器、筝との共演を喜んだ。
筝には沢井流の家元の沢井一恵 (筝)、沢井流の栗林秀明 (筝) そしてベースにダグラス・ユワート(reeds)との交流があり“SABU” 豊住とのセッションで演奏したことのある齋藤徹 (b)、しなやかで美しい音色の吉野広志 (b) という弦楽四重奏を基本にデュオからクインテットまでジョセフはソプラノ、クラリネット、バス・クラ、フルート、バス・フルートそしてベルやほら貝などを使い分けて色鮮やかなトーン・ポエムを描いてくれた。

このジャパン・ツアーを終えて一日だけ休養し6月29日と30日ジョセフは東京FMのレコーディング・スタジオにツアーで共演したメンバー全員を招いてアルバム『Poem Song』(1990, テイチク) のレコーディングに臨んだ。

1990年6月30日TFM R7スタジオ

すべてがこれまで経験したレコーディングでは見たことのない新しい発見ばかりであった。

たとえばアルバム2曲目の<ポエム・ソングⅡ>ではジョセフはイントロでとった沢井一恵 (筝)さんのソロがあまりにも美しいので喜びのあまり箏の音にあわせて裸足でスタジオ中をおどりあるき、<一恵の宝石をまいたような美しく素晴らしい音は2度と録れない、私は指が滑っているところがあるがこのテイクでOK>と録り直しをせずワンテイクでOKサインを出した。
また5曲目の<ファイナル・ソング>ではミキシング・コンソールのフェーダーを一切触らせずに演奏しながら自分の体をマイクから遠ざけたり体をぐるぐる回したりしながらサウンドのコントロールを自ら行うのを見て、ああ、これがAEOCでつちかった音づくりの秘訣なのだと感心させられたのを覚えている。

そしてアルバム・ジャケットのタイトル用にニューヨークに帰国してからFAXで寄せられたジョセフの直筆でありJOY IN THE UNIVERSEというジョセフのメッセージが強いインパクトを持って伝わってくる。

また、詩人でもあるジョセフは<Blues FOR ZAZEN>の演奏のなかで自らの詩を謳ってくれたがチェット・ベイカー(vo, 1929~1988 58歳没)をソウルっぽくしたようなチャーミングな声の持ち主であった。
ジョセフは自ら作った詩を音に合わせて朗読をすることが多くファースト・アルバム『ソング・フォー』(1966, delmark) から既に詩と音の融合を試みている。
ジャズと詩の融合ではチャーリー・ミンガス (b,1922~1979 56歳没) が『The Crown』(1957, Atlantic)で試みていることがよく知られているが自作自演のポエトリー・リーディングとしてのジョセフの存在感は<ソング・フォー>以上に<ブルース・フォー・座禅>のほうが大きい。

<ブルース・フォー・座禅>抜粋

座ったことがあるだろうか まるい座布団のうえに そして悟ったことがるだろうか … (中略) … 初めはむずかしいかもしれないが あなたはきっと見つけるだろう 自分が生きてあることの歓びを(訳:清水俊彦)

今年の1月11日ジョセフ・ジャーマンの死はニューヨーク・タイムズに大きく取り上げられた。
ジョセフ・ジャーマンは2019年1月9日ニュージャージー州イングルウッドのリリアン・ブース・アクターズ・ホームで亡くなった、享年81。

ニューヨーク・タイムズによると、元夫人であったトラウニー・デイヴィスがジョセフは心停止による呼吸不全で亡くなったと報じている。
トラウニーとは1990年ジョセフと一緒に来日した時にお会いしているが知的で物腰の優しい方であった。現在は作家、ジャーナリストとして活躍している。

http://www.thulanidavis.com/

ジョセフ・ジャーマンは1937年9月14日アーカンソー州パインブラフで生まれるが子供のころシカゴのノースサイドに移っておりシカゴ育ちである。
シカゴのサウスサイドにあるディサブル・ハイスクールに進学し、そこでヴァイオリニストで音楽教育者として高名なウォルター・ディエットに音楽を学ぶ。
ウォルター・ディエットの率いるバンドではスネア・ドラムを担当したという。

1955年にジョセフは高校を中退し米陸軍に加わり第11空挺師団の落下傘部隊に配属され東南アジアの戦闘で負傷し1958年まで西ドイツに配属される。
この西ドイツに滞在中にジャズのレコード、とりわけパーカー、マクリーン、コルトレーンを聴いていて、自分でもアルトとクラリネットの演奏を始める。

1958年に除隊しシカゴに戻り、ウッドロー・ウィルソン短期大学に通い、そこで1961年にロスコー・ミッチェル(reeds,1940~)と出会っている。
学校にはマラカイ・フェイヴァース (b, 1927~2004 76歳没) やアンソニー・ブラクストン(reeds, 1945~)、ヘンリー・スレッギル(reeds, 1944~)がいたという。
そして1965年、エクスペリメンタル・バンドを率いていたムーハル・リチャード・エイブラムス (p, 1930~2017 87歳没) 等とともにAACMの設立に参加し、ここからAACMとしての活動が始まる。

その翌年の1966年にデルマークからファースト・アルバム『Song For』(delmark, 1966)を録音するがジャケットの表にはAACMのロゴを大きく入れ、ライナーノーツも自分で書いている。
デルマークには1968年に『As If It Were The Seasons』(1968, delmark) を録音している。
さらにデルマークには大学時代の仲間アンソニー・ブラクストン (reeds, 1945~)とのデュオ『TOGETHER ALONE』(1971, delmark) を録音しているが多楽器主義者の二人が様々なリード楽器を駆使しての対話はなかなか面白い。

そしてこの頃ジョセフはトリオを組んで演奏していたが周辺ではロスコー・ミッチェルがセクステットを率いて活動をしていてロスコーのグループを母体にしてAEOC (the Art Ensemble of Chicago) が徐々に形成されてゆき、そこにジョセフも加わってAEOCの原型が創られていった。

AEOCのファースト・アルバムは1967年にレスター・ボウイ(tp, 1941~1999 59歳没) の自宅で録音された『Early Combinations』(1967, Nessa)で、メンバーはロスコー、ジョセフ、レスター、マラカイにチャールス・クラーク(b)、サーマン・バーカー(ds)の6人であった。

1984年4月22日 五反田簡易保険ホール           

AEOCは1974年の初来日以来何度か来日しているが74年の時は顔にペインティングをほどこしてステージ後方から登場し会場を騒然とさせた。
1984年二度目の五反田・簡易保険ホールでのコンサートがデイスク・ユニオンのDIWレーベルから発表されていてAEOCのステージを再現『LIVE IN JAPAN』(1984, DIW)してくれていて、このアルバムを聴きながら目を閉じると楽器博覧会のように並べられた沢山の楽器を操るメンバーの姿が思い浮かぶ。
DIWはそのほかAECのアルバムを1990年に副題にジョン・コルトレーンに捧ぐとした『DREAMING OF THE MASTER SUIT』(1990, DIW) とセシル・テイラー(p, 1929~2018 89歳没)との共演盤『DREAMING OF THE MASTER VOL.2』(1990, DIW)を録音している。
ジョセフが『Poem Song 』(1990, テイチク)をレコーディングするほんの数か月前のことであった。

1969年の一時期AEOC はフランスに滞在しBYG RecordsやAmerica Recordsに沢山のアルバムを録音しているがその数多い中で個人的にはブリジット・フォンテーヌ (vo,1940~) の『ラジオのように』(1969, SARAVAH) が好きである。
そしてジョセフは1983年にシカゴからブルックリンに居を移しているが、AEOCの活動を推進していた時期で、翌年の1984年にはAEOCの日本公演を行っている。

1990年9月21日 京都東本願寺

あるときジョセフから何枚かのCDが送られてきた。
その中の1枚に1996年、ジョセフがウィスコンシンのファースト・ユニタリアン・ソサエティ・ミーティング・ハウスでマリリン・クリスペル (p, 1947~)とのデュオ・コンサートを収めたライヴ・レコーデイング『CONNECTING SPIRITS』(1996, Music&Arts) が入っていた。
ここでジョセフは<Meditation on a Vew of Compassion>という自作曲で信教による悟りを音楽に溶け込ませたような瞑想的な演奏をして当時の心境を吐露しているようなスピリチュアルな世界を描いている。

話は戻るが1990年、ジョセフのジャパン・ツアーで京都を訪れた際ジョセフは東本願寺へ出向き真宗大谷派に帰依し「Shaku Gyo Joseph Jarman」の法名をもらっている熱心な仏教徒でもあった。
そしてジョセフはトラウニーと共にブルックリン仏教徒協会を設立した。
またブルックリンに Jikishinkan 合気道道場をつくり禅と合気道の指導に当たり、90年代の後半からは音楽よりも道場のほうに力を入れるようになった。
ちなみに合気道はシカゴ時代の1970年頃からずっと研究していたという。

なんどもジョセフを日本に招聘し行を共にしている“SABU” 豊住芳三郎 (ds)は「2001年の春、9.11の前、ヴィジョン・フェステイヴァルの頃にジョセフの部屋からツインタワーを眺めていたこと、そのあと2人でドライヴして、ワシントンへデュオ・ツアーしたことが一番楽しい思い出だね、MUSICの才能はばっちり!いい人生だったのでは」とふりかえってくれた。

AACMの重鎮ダグラス・ユワート (reeds) はジョセフ・ジャーマンのメモリアルを検討中であることをアナウンスしている。

よい作品と思い出を残してくれたジョセフのご冥福をお祈りいたします、合掌。

望月由美

望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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