MONTHRY EDITORIAL02

Vol.33 | 微笑みのショパンtext by Mariko OKAYAMA

ショパン・イヤーの今年は、オール・ショパン・プログラムを組むピアニストが多い。ディスクも同じで、ニュウニュウのショパン『エチュード全曲集』も、余分な湿気のない爽快かつ情趣ある演奏でなかなか良かった。
アルゲリッチの1965年、伝説の録音盤の『ソナタ』や『スケルツォ』などは、キーの上で若い彼女の指が燃え立つようで、こういうショパンも私は好きだ。
私が接した実演で、記憶に鮮烈なのは、フー・ツォンとキーシン。どちらも、はるか昔のことで、どちらもオール・ショパンだった。フー・ツォンの『ノクターン』は哭き、キーシンは来日デビューの15歳だったが、ひたむきな真情いっぱいの瞳が、うるうると濡れる『ノクターン』だった。

 

ショパンは私がはじめて好きになった作曲家で、ずっと今も好き。学生時代はドビュッシーに浮気もしたが、近年はショパンとバッハばかり弾くようになり、ときどきそこにベートーヴェンやシューベルトが入る。そうして、ショパンを弾いていると、バッハが弾きたくなり、バッハを弾いていると、ショパンが弾きたくなり、のくり返しで、どの曲もいっこうに仕上がらない。
感傷に寄りかかるとピシリ戸を閉ざす「ショパンの怖さ」は、聴いていると判るのだが、自分で弾くぶんには、意識が飛ぶ。思い切り自分に引き寄せて溺れる、と言って良い。


微笑みのショパン、というものがある、と知ったのは、つい先日(6月12日)のツィメルマンのリサイタルで、だ。所沢のミューズ・アークホールというところで。
このホールに行くのは初めてで、西武新宿線の航空公園駅という駅から、広々した大通りを15分ほど歩く。店なんか、ほとんどない。緑の並木が茂り、新興(といってもさほど新しくはない)のアパート群が立つ。 でも、なにか、清々した気分の大通りで、ホール前のゆったりした広場には自転車が並ぶ。緑の木立の下のベンチに三々五々、人々が憩っていた。
都心のホールにはない、のんびりした空気。集まってくる客たちも、めいっぱいお洒落した女性もいれば、普段着の若者もいて、私はなぜか外国に居るような気分になった。
ホールに入ったら、正面に天使が二人立っていて、思わずウィーンのムジークフェラインの黄金のザールを思い出した。あそこに初めて行った時、ずらり天井を支える天使たちの黄金に輝く立像に、思わず溜め息が出た。音楽は、その天使たちの吐息やざわめきのように響いてきた。
これがヨーロッパの音か。そう、心底、知った。
所沢のホールの天使は一対で、パイプオルガンをはさんで立っている。
私は、ホールへの道すがら、広場のベンチで、そしてホールの天使たちに、なんだかますます外国気分になったのだ。
都心のコンサートに集う、ある種スノッブな空気でない、親しみある和やかさがそこには漂っているようで、みんなが「ウェルカム! ツィメルマン!」と心待ちしている。
静かに、微笑をたたえてツィメルマンが出てきた。

 

そして、『ノクターン第5番』を薄靄のなかに漂うようにそっと弾いた。故郷にまどろむ二十歳のショパンの歌は、まだ夢の中だ。とりわけ、半音階下降する装飾音の、天使の羽が撫でるような優しさには、それだけで心が溶けてしまう。
『ソナタ第2番 葬送』は愛人サンドのノアン邸で完成された作品だが、ツィメルマンは情熱のなかにも青白い炎をゆらめかせ、煽らない。その抑制は、『スケルツォ第2番』でも、『ソナタ第3番』でも解かれることなく、しかも、それぞれの音の粒というより、ショパンの音楽全体が、真珠のような柔らかな光沢に包まれ、発光するようだった。
最後の『舟歌』は絶品。ニュアンスの塊で、聴き手の心をゆらゆら揺らした。
「ありがとう。ツィメルマン。」 アンコールをねだらない、慎ましくも惜しみない拍手が彼を包む。
ホールに満ちた温もりある感謝と幸福感・・・。
この日のツィメルマンのショパンは、どれもが微笑んでいて、私にはそれが都会の喧噪を離れた場と人々の醸成する空気との相乗が生んだもの、とさえ思えた。

外国に居るような気分とは、そこからのものだろう。 都心の聴衆の「待ち構える耳」と、郊外の聴衆の「心待ちする心」との違い、と言ったらよいか。
ヨーロッパの人々の耳は鋭いが、それより何より、音楽への心からの愛と敬意に満ちている。


ショパン・コンクールでの覇者、ポーランド生まれのツィメルマンのショパンに「極め付き」のコピーがつくのは、彼にとってはどうでもよいことかも知れない。
ただ、彼のショパンを聴きながら、以前、旅したポーランドの田舎道、村々、出会った人々、その風景や色彩が、音の背後に流れてゆくのを、しみじみ感じた。
泊まったホテルでたまたま結婚式があり、遠来の私たちを歌と踊り、そしてブトカ(ウォッカ)で歓待してくれたこと。道すがら、見つけた村祭りの賑やかさ。ここでも、伝統衣装で着飾った老若男女が、素朴な歌と踊りで盛り上がっていた。
そういう日常が、ショパンの歌の核であること。
そして、その日常には、様々な民族の様々な文化が溶け込み、それらの渾然一体がポーランドの土壌となっていること。
ツィメルマンの弾くスケルツォには、その土の香りがあった。
一方で、常に周辺国からの侵略を受け、傷を負い続けた長い歴史にしみ込んだ「ZAL」(悲愁・傷む心)。
その「ZAL」を、その日、彼は「傷み」でなく「慰撫」のなかに響かせたのだった。

 

ショパンの生家は、ワルシャワから車で1時間ほどの小さな村ジェラゾワ・ヴォーラにある。緑豊かな公園の一角、蔦のからまる白い家はいつも観光客でにぎわい、その一室では音楽院の学生たちのショパン演奏がある。ベンチに思い思いに座り、風のそよぎや小鳥たちのさえずりとともに、窓辺から流れるショパンを聴く人々。
そういえば、音楽家の生家や暮らした家にはかなり行ったが、こんなふうに今も、各国からの人々を楽しませている場はなかった。
祖国を去ったショパンは凍りついた「ZAL」を抱いてパリに死んだが、彼の残した音楽は、それゆえ人々に、慟哭と憧憬と慰撫と微笑とを投げかけ続ける。
素顔のショパンには、ウィットとユーモアもあったという。
このショパン・イヤーに、そんなショパンにも出会えるだろうか。




ワルシャワのワジェンキ公園のショパン像



村祭りの特設ステージで踊る若者たち

丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

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COLUMN
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