MONTHRY EDITORIAL02

Vol.44 | 「国境を越える音楽のアイデンティティ」   text by Mariko OKAYAMA


 イスラエル室内管弦楽団が、7月26日、バイロイトで、ワーグナーの曲を初めて演奏した。バイロイト市長の挨拶ののち、イスラエル国歌が演奏され、聴衆は起立してこれを迎えたという。コンサートではユダヤ人作曲家のマーラー、メンデルスゾーンの作品が2時間ほど演奏され、それから長い沈黙をおいて、ワーグナーの『ジークフリード牧歌』が奏でられた。終演後、700人あまりの聴衆は総立ちで拍手をしたそうだ。指揮はロベルト・パータノストロ。やはりユダヤ系の指揮者である。
 これがニュースになるのは、イスラエルのオケが、自分たちの民族を虐殺し、それに一役も二役も買った作曲家の作品を、初めて、その作曲家の聖地で弾いたからだ。ワーグナーが極端な反ユダヤ主義者で、その作品がナチスのホロコーストに大いに利用されたのは周知のこと。パータノストロは「ワーグナーの思想は恐ろしいものだが、音楽は別、人物と作品を分けるべきだ。イスラエルとドイツの和解のシグナルとしたい。」との考えから、この演奏会を企画し、ワーグナーの曾孫であり、バイロイト音楽祭を率いるカタリーナ・ワーグナーも「ワーグナーとユダヤ人の架け橋に。」と、これに協力したとのこと。彼女のこうした姿勢はすでにこのコラムで紹介しているが、音楽に対するその度量の広さと理解の深さには敬意を表したい。
(http://www.jazztokyo.com/column/editrial02/v42_index.html)
 この企画が発表されると、イスラエルではさっそく抗議の声があがり、楽団への予算差し止め要求も出されるほどだったという。ドイツ行きは楽団員の自由意思に任されたそうだが、結局36人中35人が参加となった。楽団員のなかには、ホロコーストの犠牲者の子孫も混じっていたとのこと。彼らは自国でのリハーサルはせず、ドイツ国内でのリハのみで公演に臨んだそうだ。
 『ジークフリード牧歌』は、ワーグナーがリストの娘である妻コジマの33歳の誕生日のプレゼントとして書き上げた作品。彼女がその朝目覚めると、枕辺に美しい音楽が流れており、寝室への階段には小さなオーケストラが用意されていた。そうしてワーグナーが子供たち5人とともにやってきて「誕生日の交響的あいさつ」と言ってスコアを手渡したものだ。コジマはあまりの幸福に涙をこぼしたという。
 そういう作品を、イスラエルの楽団員はバイロイトで演奏したのである。その演奏に立ち会った人々は、音楽を通してユダヤとドイツの友好の歴史的誕生を目撃した、とも言えよう。

 今回は、イスラエルの楽団がバイロイトに出向いての公演だったが、イスラエルではタブーとなっているワーグナー作品をイスラエルで演奏したのがダニエル・バレンボイムである。つまり、ユダヤの憎悪の的であるワーグナーをイスラエル国籍であるバレンボイムが2001年、エルサレムで演奏したのだ。ベルリン国立歌劇場管弦楽団のコンサートのアンコールで、曲目は『トリスタンとイゾルデ』の一部。このとき、彼は、演奏前に聴衆に向かって、「聴きたくない人は出て行ってくれてかまわない。」と語りかけ、演奏の理解を求めた。これに対し、聴衆の一部は抗議して席を立ち、出て行ったそうだ。
 バレンボイムは、1999年に、友人であるパレスチナの思想家エドワード・サイード(1935~2003)とともにウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を設立している。ゲーテ生誕250年の記念日に、彼とゆかりの深いワイマールに、アラブとイスラエルの若い音楽家たちを集めオーケストラを創り、ワークショップを行ったのである。ウェスト=イースタン・ディヴァンの名称はゲーテの詩集『西東詩集』に由来する。ドイツの文豪が、イスラーム世界に触れ、これを賛嘆して生まれた詩集である。
 ちなみに、バレンボイムはアルゼンチンで生まれ、祖父母はロシア系ユダヤ人で、イスラエルで育ち、成人してからはヨーロッパで暮らしている。一方のサイードは、パレスチナ人としてエルサレムに生まれ、レバノンでも暮らし、その後渡米して精力的な活動を展開した。つまり、この二人によるウェスト=イースタン・ディヴァン設立は、ユダヤとアラブ(パレスチナ)の和平とともに、国境を越えた全ての国々へと、和平を呼びかけるものなのである。
 ウェスト=イースタン・ディヴァンのワークショップの様子は『音楽と社会』(バレンボイム/サイード みすず書房)にくわしい。参加者のほとんどは18歳から25歳の間くらいだったが、14歳のシリア出身のクルドの少年も入っており、国籍はシリア、ヨルダン、パレスチナ、イスラエル、エジプト、レバノン、ロシアなど。バレンボイムの他、チェロのヨーヨー・マも参加した。オケのリハの他、室内楽、マスタークラスなどがあったが、夜にはディスカッションの時間も取られた。その第一回での議論は実に興味深い。

 


 つまり、こういうことだ。イスラエルから来たアルバニア出身のユダヤ教徒の子供が、レバノン人の仲間たちだけで夜楽しんでいた即興に入れて欲しい、と言ったところ彼らは「おまえにはアラブ音楽は弾けない。アラブの音楽を演奏できるのはアラブ人だけだ。」と撥ね付けたというのだ。彼は「それは差別だ。」と訴えたのである。この問題の結論は結局出なかった。だが、10日後には、アラブ音楽はアラブ人しか演奏できない、とアルバニアの子をつっぱねたアラブの子は、ヨーヨー・マにチェロをアラブ音階に調弦する方法を教えていた。彼は中国人にもアラブ音楽が演奏できると考えるようになったのである。
 また、イスラエル出身で兵士でもある子が、「自分は音楽をしにここに来たのであって、この種の議論には興味ない。なぜなら自分はレバノンに送られて、彼らと戦うことになるかもしれないのだから。」と不満を漏らしたものの、「それなら帰ってもいいんだよ。」というバレンボイムの言葉に従うことはなかった。
 そうして、彼らは全員でバレンボイムの指揮のもと、ベートーヴェンの『交響曲第7番』の演奏の練習に邁進したのであった。
 このことを、サイードはこう語っている。
「僕の意見では、ここで起こったことにまったく政治的な含みはない。一組のアイデンティティが別の一組のアイデンティティに取って代わっただけのことだ。はじめは、イスラエルのグループがあり、ロシアのグループ、シリアのグループ、レバノンのグループ、パレスチナのグループと、イスラエル国籍のパレスチナ人のグループがあった。でもあるとき突然、彼らはすべて同じオーケストラで、同じ指揮者のもとに、同じ曲を演奏する、チェロ奏者やヴァイオリン奏者になった。」とサイードは言っている。
 シリアから来た子は、イスラエル人というものをはじめて見た。そうして、一つの譜面台を二人で見ることになった。「同じ音を、同じ強弱で、同じボウイングで、同じ響きで、同じ表現で演奏しようとしていた。いっしょになにかをやろうとしていた。ただそれだけのことだ。二人がともに関心をもち、情熱を燃やしているものを、いっしょにやろうとしていたのだ。そのたった一つの音を達成してからは、彼らはもうおたがいを前と同じように見ることができなかった。共通の体験を分け合ったからだ。これこそが出会いの大切さだと僕は思う。」とバレンボイムは語っている。
 互いに対する無知。それが亀裂を生み、深める。「他者」についてどれほどの無知が横行しているかを、このワークショップを通じてバレンボイムは痛感したという。
 彼は「紛争がいつの日か解消されるのであるとすれば、それは争っているもの同士が互いの接触を通じて問題を解決していくことによってしかありえない。」と語っている。また、サイードはゲーテについて「彼にとっての芸術とは、とりもなおさず<他者>へ向かう探検であって、自己に専心することではなかった。」と語る。
 このオーケストラ・ワークショップは、その後も毎夏、シカゴ、スペインなどで開かれ、現在はスペインのセビリヤに本拠地を置いているとのことだ。

 人物と作品は分けて考えるべき、と、バレンボイムも言っている。人間として醜悪でも、音楽として美しいならどこででも、誰によってでも演奏されるべきだ、というのが彼の考えだ。パータノストロもそう考え、バイロイトで『ジークフリード牧歌』をイスラエル室内管弦楽団のメンバーで演奏した。楽団員には大きな葛藤があったに違いないと思う。それでも、彼らはバイロイトでの「新しい出会い」のために、民族という一つのアイデンティティを越え、音楽を通した新たなアイデンティティ、ユダヤとドイツの新しい出会いに身を投じたのである。
 バレンボイムは、『音楽と社会』の「ドイツ人、ユダヤ人、音楽」の章で、ドイツの大統領ヨハネス・ラウの2000年の演説を紹介している。
 「愛国心(パトリオティズム)は、人種差別主義やナショナリズムがけっして容赦されないところにだけ、栄えることができるのです。愛国心をナショナリズムととり違えてはなりません。愛国者とは自分の祖国を愛する人です。ナショナリストとは他の人々の祖国を軽蔑する人です。」

 互いを尊重しつつ、何かを共有すること。音楽はその最上の手引きとなり得る。イスラエル室内管弦楽団のバイロイトでのワーグナー演奏も、ウェスト=イースタン・ディヴァンも、そのことを明瞭に示していると言えよう。


丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

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