Concert Report#426

伊藤恵ピアノ・リサイタル≪ブラームス、細川俊夫&シューベルト≫
〜新・春をはこぶコンサート/8年連続コンサートVol.X
2012年4月29日(日) @東京・紀尾井ホール
Reported by 佐伯ふみ

出演:
伊藤 恵 (Kei Itoh ; pf.)

プログラム:
ブラームス;3つのインテルメッツォop.117
      4つの小品op.119
      <休憩>
細川俊夫;ピアノのためのエチュード1.---2つの線---*
シューベルト;ピアノソナタ第21番変ロ長調D.960

アンコール:
ブラームス;3つのインテルメッツォより第3曲嬰ハ短調

*改訂版/世界初演

 伊藤恵が8年連続で取り組んでいるリサイタル・シリーズの第5回を聴いた。前半にブラームス、後半は細川俊夫の小品に続いて、シューベルト畢生の大作、遺作の変ロ長調ソナタ。

 伊藤恵のピアノと言えば、非常に丁寧で細やかな音楽づくり、優しく柔らかな音色とフレージング……言ってみればとても「女性らしい」演奏、という印象だった。オープニングのブラームス《インテルメッツォ》を聴いて、そうそう、これが伊藤恵さんのピアノだった、と改めて思ったのだが……2曲目のop.119あたりから後半にかけて、少しずつ、しかしはっきりと様子が変わってきた。何かが違う。何だろう?

 後半の始まりは細川俊夫の小品。ブゾーニ国際音楽コンクールの課題曲として作曲された(2011年)ものを、このリサイタルのために最終部分を補作。決定版としてはこれが世界初演、そしてこれから書き続けていこうとしているエチュードの第1番となるべき作品だという。右手と左手との「2つの線」が織りなす音の宇宙。透明感のあるエッジのきいた音の連なりに、伊藤ならではのしっとりとしたまろやかさが加わって、忘れがたい美しさであった。

 そして最後のシューベルト。死のわずか数週間まえに書かれた作品で、すでにシューベルトの魂はこの世に属しながらも、彼岸の風景を確かに見ていたと思わせる、他に類例のない傑作。シューベルトの芸術の到達点である。

 前半のブラームスですでに、ここぞという箇所では、気迫のこもった声がピアノの響きに混じって切れ切れに聞こえてきていた。指先だけでは足りないかのように、「歌」が身のうちから声となって溢れだしてしまうのだ。シューベルトにおいては第1楽章からそうで、並々ならぬ没入ぶり、気迫であった。
 どういうわけか筆者は、この2カ月でこの曲を3人のピアニストの生演奏で聴く幸運に恵まれた。パウル・バドゥラ=スコダ、高橋アキ、そして伊藤恵である。演奏の優劣といった比較はナンセンスであって、三人三様、それぞれの個性が生きた演奏であり、リサイタルでこの曲をいま取り上げる必然性もそれぞれが持っていた。ただ、もしも伊藤恵の当夜の演奏を特徴づける何かを挙げるとしたら、この没入の深さ、だったかもしれない。
 

 聴きながらまず思ったのは――ああ、これだけ自由自在にピアノを操ることができて、自分の思い描く音楽を具現化できるとは、なんと幸福なことだろう、ということだった。ピアノという楽器が自分の身体の一部となり、自在に音楽する喜び。演奏者の伊藤自身が感じていただろう歓喜、快感が、聴いているこちらにも伝わってきたとも言える。
 そしてもう1つ。音楽とは、演奏とは、今ここで、百年二百年前に生きた作曲家の魂を甦らせることなのだ、ということ。伊藤の演奏を通して、シューベルトが息を吹き返し、今ここで、我々と共に、確かに生きていた。シューベルトの苦悩、シューベルトの喜び、シューベルトの涙、目に映っていた荒涼とした孤独の風景。それを我がこととして感じながら、あっという間に2楽章になり、3楽章が過ぎ、最後の一音を伊藤が全身全霊を込めて弾ききったとき、突然、我にかえった。演奏者と一緒に、曲に没入しきっていたことに気づかされたのはその時である。

 コンサートを聴きながらこんなことを思ったのは初めてだ、と考えていたら、拍手に応えて舞台に戻った伊藤が、聴衆に向けて語りだした。込みあげてくるものがあるようで、しばらく言葉が出てこない。やがて、昨年が自分にとって特別な年であったこと、もちろん東日本大震災であり、個人的には、恩師を失った年でもあったと語ったあと、こう述べた。「今日は皆さんがとても心を開いてオープンな気持ちで聴いてくださっていることを感じました。それに支えられて、ブラームスから始まってシューベルトに終わるこの旅から、無事に生きて戻ってくることができました。ありがとうございました」。
 これを聴いたとき、ああ、やはり、と思った。「無事に生きて戻ってこられた」というのは決して大げさな表現ではないだろう。そこまでの境地だったからこそ、作曲家の魂が確かに甦ったと思えるような演奏になったのだ。
 演奏者と聴衆が共に、息を吹き返した作曲家の魂と同化して旅をする。生のコンサートを聴く醍醐味を確かに味わわせてくれた、貴重なリサイタルであった。



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