Concert Report#434

ミッシャ・マイスキー
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲
2012年5月21日 @サントリーホール
Reported by 多田雅範
Photos by 林 喜代種

曲目
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV1009
:無伴奏チェロ組曲第2番 ニ短調 BWV1008
:無伴奏チェロ組曲第5番 ハ短調 BWV1011

サントリーホールの大ホールに椅子が置かれている。マイスキーが登場して温かい拍手。...座って、チェロをやや斜めに構えた瞬間にガッとすぐに演奏が始まった。おお、もうこれはバッハを超えてマイスキーの歌になっている!楽譜が見えない、楽譜台が置かれていないという意味ではなく、天衣無縫にインプロヴァイズされたバッハが鳴っているのだ、ろう...。

2番に入って、ワルツのテンポが歌い出されて耳をすましていると、大ホールの空間の残響に不思議な現象を感知し始めてしまった。空間のあちらこちらからチェロの倍音じゃないものが聴こえてくる。目を閉じて意識を集中していると、不吉とも郷愁ともつかぬ汽車の汽笛を耳にしたし、見知らぬヨーロッパのどこかの森に囲まれた街の景色まで見えてきた。

何なのだ、これは?これは、マイスキーが演奏しているのではなく、このチェロが鳴っているのだ。考えるとわたしの耳はホールに響いた残響を拾うようにそばだてている。チェロとホールが交感している。

休憩時間にパンフレットをチェックすると、「1720年製のモンタニャーナのチェロ」らしい。

後半の第5番になっても、このチェロはさまざまな響きを放ち続けた。もはやバッハを聴いているとか、マイスキーの解釈や表現がどうという聴取のパラダイムを持つことができないで、ただただ自然現象の美しさに身を晒しているようでしかなかった。

この日の朝、練馬ではうまいぐあいに薄い雲がかかって、日食レンズ無しで肉眼でキレイに金環日食のリングを観ることができた。羽衣に生地に透かしがかかるように金環リングが彫られていたようだった。サントリーホールに早く着いていたので、アークヒルズの周辺の地形を確かめたり、この地が開発される以前の水の流れや樹木のありよう風の流れを思い描きながら散歩していたのだった。曇天で、薄暗く、土地の息吹きを感じられる夕暮れだった。

モンタニャーナのチェロは、73年にニューヨークのカーネギー・ホール・デビューをした時に知り合った男性から譲り受けたものだそうだ。そのチェロは何かを宿しているのだろうし、マイスキーに出会い、響くものにも何かの伝播があるように感じる。マイスキーの2年間の強制労働や亡命という経歴とか、テクニック、体格、研鑽にも、このチェロの独特な響きとしか形容できないところにも、及ばない音楽の不思議は存在する。

マイスキーは聴いてこなかった。誰もマイスキーを教えてくれなかったし、FMで聴いても図書館でCDを借りても耳にひっかからなかった。90年代に紀尾井ホールへアンナー・ビルスマは聴きに行ったけど、あちらはバロック・チェロだったのか。わたしの中のチェリスト世界ランキングは断トツで小澤洋介、次にリプキンと、08年のカザルスホール、デビューリサイタルで1曲目に黛敏郎「文楽」を持ってきた宮田大(http://www.jazztokyo.com/niseko/oyaji04/v04.html)だな。...などと思っていたら宮田大は翌年ロストロポーヴィチ・コンクールで優勝しているではないか!

マイスキーはクレーメルのひとつ下で、同じバルト三国の真ん中ラトヴィアの首都リガの出身、地元の学校もモスクワ音楽院も一緒の間柄。クレーメルの主宰するロッケンハウス音楽祭にも定期的に出演している。ECMレーベルはクラシックを手がけるスタート時にクレーメルとロッケンハウス音楽祭の音源をリリースする構えに入り、アファナシエフやカシュカシアンをピックアップするところまで展開していたから、当然アルゲリッチやマイスキーも録りたかったことだろう。

 

チェロとホールが交感している、と、書いた。演奏と場所の問題は、重要な関数でありファクターで、演奏者のレベルが一定以上のものであればそれしかないところがある。楽器と場所しかないと極論できるかもしれない。マイスキーの、“天衣無縫にインプロヴァイズされたバッハ”に至るところまで来ると、他のチェリストとどうかとか、バッハの解釈としてどうかは浮上してこない。

マイスキーを聴くひとは、何度でもどこへでも聴きに出かけるのだろうし、縁のない聴衆は縁のないままなのだろう。わたしはこれからマイスキーのCDを聴くようにはならない気がするが、コンサートにはそれこそどこへでも聴きに出かけたい。この体験は、録音できない。音楽にはそのような体験が起こる、そのような不思議が存在することを伝えられればと思う。







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