私の撮った一枚 #2「ダニエーレ・ディ・ボナヴェントゥーラ」
text & photo: Toshio Tsunemi 常見登志夫
トランペット/フリューゲルホーン奏者のパオロ・フレス(Paolo Fresu)とバンドネオンのダニエーレ・ディ・ボナヴェントゥーラ(Daniele di Bonaventura)が共演した、イタリア文化会館でのステージ(2016年9月10日)。
演奏はトランペット/フリューゲルがエフェクターを駆使したエレクトリックな響きと、ダニエーレのアコースティックなバンドネオンが溶け合って、鳥肌が立つような素晴らしいステージだったが、写真はなんてことはない、単なるステージ写真である。楽屋でのくつろいだ様子とか、撮らせてもらっていれば、今回使うことができたのに、と後悔している。
このころ、『ブラストライブ』(現在は休刊中)という吹奏楽愛好家向けの雑誌が自分のページを持たせてくれていて(連載タイトルが「常に見てます、撮ってます」という、ひどいものだった…)、出かけたライブやコンサート、インタビューなどの写真・記事を自由に載せてくれていた。管打楽器奏者向けの雑誌だったから、トランペット奏者のパオロを主体にしたライブ・リポート記事となったわけだが、当然、もう一人のダニエーレも気になっていた。
ダニエーレはこの時が初来日で、ちょうど50歳(1966年生まれ)。パオロとの共演盤『In Maggiore』『Mistico mediterraneo』やミロスラフ・ヴィトウスのECM作品にも登場するから名前だけは知っていたけれども、まともに聴くのはこの時が初めてだった。(ダニエーレのプロフィールやCD、演奏風景(YouTube)などはWEB上に溢れているからここでは割愛したい)
この時のコンサートで、スイングジャーナル社時代の編集者仲間だった大久保哲郎氏(当JazzTokyoのライブ・リポートの好評連載「小野健彦のLive after Live」のイラストでおなじみ)と20数年ぶりに再会、大いに盛り上がったのだが、この時大久保氏から、ダニエーレとSJ社員だったM女史との素敵な出会いを聞いた。
以下、大久保氏から聞いた話(M女史の許可も得ています)を織り交ぜて。
このコンサートからさらに20年くらい前、ダニエーレは20代後半の若者で、ジャズ音源が乏しいイタリア音楽事情の中で日本のジャズ雑誌、『スイングジャーナル』を読んでいた。意外かもしれないが、『スイングジャーナル』という雑誌はすべて日本語で書かれているのに、海外にも多くの読者を持っており、ビル(芝パークビルヂングだったか?)の地下にある販売部でその定期購読者のリストを見たとき、海外発送の多さにびっくりしたものだ。本場のアメリカよりもジャズに関する情報は詳しかったと思う(日本国内で流通するLP、CDはもちろん、自費制作盤も含めてすべて、海外から輸入される音源もなるべく取り上げていた)。海外のマニアやミュージシャンにも、“スイングジャーナル”という名前は知られていた。
イタリアにいた、当時ジャズ・ピアニストだったダニエーレもその読者の一人。幼少期からピアノ、チェロ、指揮、作曲などクラシックを学んでいたが、20代に入りジャズ・ピアニストとして活躍していたころ。当時のアイドルはキース・ジャレットで、キースのアルバムを入手したいと、日本のスイングジャーナル社宛に熱い思いを綴った手紙を書いた。
総務課にいたM女史(私の大先輩である。お世話になりました)は当時、イタリア語教室に通っていて、その熱心なイタリアの若者の問い合わせに熱心に応えた。日本国内で手に入るキースのすべてのCDを送ってあげたりしたそうだ。それからずっと2人はペンフレンドになって交流を深めた。
その後M女史が結婚し、選んだ新婚旅行先は迷わずイタリアに。そこで、ダニエーレと初対面を果たした。ダニエーレは異国の地から親身になって自分のジャズライフを豊かにしてくれたM女史に感謝感謝、つきっきりでローマを案内してくれたとのこと。
ダニエーレはもう一つの楽器、バンドネオンの魅力の虜となり、ピアノとは奏法が異なるバンドネオンの習得に躍起となっていたころでもある。
その後、ダニエーレがジャズ・ピアニストから卓越したバンドネオン奏者になってからも、日本でも演奏したいとたびたび連絡があり、M女史もそれに応えたいといろいろ動いたらしい。彼女も自分の力量ではそれほどのプロモーションもできず、せめて『スイングジャーナル』誌上で紹介を、と編集部に打診したのだが、ほとんど扱ってもらえなかったとのことだ。
今回の初来日がM女史との10数年ぶりの再会となる。このコンサートの約1週間ほど前、ダニエーレは渋谷のあるカフェでソロ・ライブを行った。(彼女を紹介しながら)「若い頃から自分にとって、遠い異国の地から一生懸命自分の音楽を応援してくれていた大恩人で大切な人。今日、ここ日本で演奏できることを感慨深く思う」と。
M女史ご夫妻がアテンドをしたのは言うまでもない。