ジャズ事始め 巻5 「ドラム奏者 山崎比呂志 」
Text & Photo by Moto Uehara 上原 基章
あの銀巴里セッションの時代からピットインNEW JAZZホール、渋谷ジャンジャンなどフリー・ジャズ史に燦然たる足跡を残してきたドラムの山崎比呂志さん。今春には大友良英、そして銀巴里以来60年振りの邂逅となった山下洋輔とのトリオによる新宿PitInn ライブ・アルバム『Old and New Dreams chapter.2 破』、そして先日も台湾の俊英サックス奏者謝明諺(シェ・ミンイェン)、大友良英、須川崇志との共演アルバム『Punctum Visus -視角-』のリリース記念ツアーなど、とても今年御年85歳とは思えないほどエネルギッシュな活動を続けている山崎さんに、貴重な話をたっぷりと伺った。
―――山崎さんは1940年、つまり戦中生まれですね。敗戦の1945年はどこにいましたか?
その頃は大森の馬込に住んでいたんですよ。5歳だから、まだ小学校へ上がる前ですね。
―――大森といえば、空襲で一番焼かれている下町エリアじゃないですか!
あの東京大空襲の時に防空壕に避難したことは、はっきりと記憶に残っていますよ。家の周り中が火の海で、本当に生きた心地がしなかった。
―――戦時中はアメリカの音楽は全部敵性音楽だから禁止されていましたが、戦争が終わって身の回りにあった音楽は覚えていますか?
僕はサラリーマン家庭の4人兄弟姉妹で育って、小学校の時から4つ上の兄貴と同部屋だったんですが、兄貴は毎日ラジオでアメリカの進駐軍放送(FEN、後にAFNに改称)を流しっ放しにしていて、それを一緒に聞いていました。もちろん小学生だから喋っている英語も音楽もよく分からない。まあ、兄貴も多分かっていなかったろうけどね(笑)。でも1曲だけ覚えているのは「ブルー・バイオリンズ」(曲1)っていう曲。番組のテーマ曲だったのかしょっちゅう耳にしていて、あれは子供心にも素晴らしい曲だなと思いましたね。
―――その時は「アメリカの音楽ってかっこいいな」と感じたんですか?
いや、そんなこと全然思わなかった(笑)。小学校3、4年生ぐらいの時は流行っていた春日八郎の「お富さん」(曲2)を歌いながら学校から帰っていました。美空ひばりさんはもう少し後かな。歌も映画も大ヒットして、可愛い子だったなあ。
―――当時は笠置シズ子のブギ・ソングなんかも流行った時代ですね。
そうそう!「東京ブギ」(曲3)とか「買い物ブギ」ね。
―――ブギウギとか灰田勝彦(曲4)など、いわゆるアメリカ音楽の要素が急速に日本の歌謡曲の中に入ってきた時代ですね。もしかしたら、ここら辺りが山崎さんにとってのアメリカ音楽の原風景なのかも知れませんね。
でも子供の頃に好きだったのは「お富さん」に笠置シズ子に灰田勝彦にひばりちゃんだったんだよ(笑)。
―――戦後アメリカは占領政策の一つとして、ラジオを通じてジャズを流していましたが、それにはあまり影響されなかったわけですね。では、山崎さんがジャズを意識し始めたきっかけは何だったんでしょう?
中学生時代だから1950年代半ば過ぎかな。中学2年の時にグレン・ミラーを知って、これはカッコいいなと思った。で、高校に入学した時にブラスバンド部に入って太鼓(スネア)を担当したの。ブラバンだから、リズムはマーチですよ。ダララッタ、ダララッタって感じで。その内にベニー・グッドマン・オーケストラのジーン・クルーパーのドラムが好きになった。映画『ベニー・グッドマン物語』(1955)は本当にカッコよかったね!その頃から進駐軍放送から流れてくるジャズが何となく耳に馴染んでくるようになっていったんで。
―――最初に憧れたドラム奏者はジーン・クルーパーなんですね。
そうですね。だから自分のキャリアにブランクがあった時『ベニー・グッドマン物語』のビデオを見直して初心に帰ったりしたこともあった。僕にとってジーン・クルーパーは本当に大切な存在なんですよ。

―――楽器を始めたのが高校時代のブラスバンド部でのスネアだったわけですが、そこからどうやってジャズ・ドラムに向かって行ったんでしょう?
これもまだ子供時代の話なんだけど、文化放送で始まった『トリス・ジャズ・ゲーム(注1)』(1954年放送開始)、司会がロイ・ジェームスでジョージ川口&ビッグ・フォー(サックス:松本英彦、ピアノ:中村八大、ベース:この時は小野満ではなく上田剛)が出演していた番組をよく聴いていたんです。これが日本のジャズを意識した出発点。そして中学生の時に親父が肺結核になってしまい家に収入がなくなってしまった。それを少しでも助けたいと思って新聞配達を始めたの。それで配達するエリアに「川口譲治」っていう表札がかかった家があって、最初は全く気に留めなかったんだけど、ある時雑誌で「ジョージ川口は大田区馬込に住んでいる」という記事を読んで、「あの家はジョージ川口さんの家なんだ!」と知った訳ですよ。そこで一計を案じて、毎日配る新聞に「僕を弟子にして下さい」と書いた往復はがきを挟み込んだんだ。ファンレターじゃなくて弟子入りの直訴状だよね(笑)。それを何日か繰り返したら、なんとジョージさん本人から返事が来たんです!そこには「私は弟子は取りません。 でも楽器の運搬を手伝ってくれる人がいるので、今の人が居なくなったら是非お手伝いをお願いします。それまでは私のステージを見に来てください。いつでもいいですよ」と書いてあった。そのすぐ後に「今度浅草の常盤座で白木秀雄さんとドラム合戦をやるから、遊びにいらっしゃい」というハガキをもらって、僕は感動しちゃった。それで姉に連れられて常盤座にジョージさんを訪ねて行ったのが最初です。それ以来暑中見舞いとか年賀状だけでなく「今九州を巡業中です」という旅の便りなど、ご本人から度々ハガキをいただくようになったんです。
―――それって、ミュージシャンとボーヤの関係以前にほとんど文通仲間だったんですね。
そう。そもそもはファンとしての憧れの存在だったのに、「近所だから遊びに来なさい」とか「今度東京ではこことここで演奏するから、時間があったら聴きに来ませんか」とお誘いいただくようになっちゃった。
―――もちろんジョージさんのご自宅にも遊びに行かれたんですね。
ジョージさんはクレー射撃が趣味だったから、ご自宅に遊びに行った時は銃を磨いたり弾を作ったりもしてましたね。横浜方面の射撃場に荷物持ちとして車でご一緒したことが何度かありました。
―――じゃあ、ボーヤとしてはドラムよりも先に散弾銃を運んだんだ(笑)。
そうそう、だから最初はファンとスターというお付き合いをさせてもらいました。随分と可愛がってもらいましたね。でも、ジョージさんの家でオススメのレコードを一緒に聴いたりとかは全くなかったなぁ。
―――ある意味ジョージさんらしいですね。
そんな風に親しくしていると、ジョージさんの普段の生活のリズムも分かるようになる。それで僕が高校を卒業する時にボーヤが辞めちゃったんだよ。それで正式にジョージさんのバンドボーイになった。そこから1年間ほど付き人兼任みたいな形でジャズクラブや放送局から全国ツアーまで一緒に廻りました。
―――ちなみにジョージさんから技術的な指導は受けましたか?
それは全然なかった(笑)。ジョージさん自身がスティックの持ち方から何から基礎を吹っ飛ばした完全な自己流で、ちょっと参考にならなかった。だからテクニックはドラム合戦の時の白木秀雄さんを参考にさせてもらいました。白木さんは藝大を優秀な成績で卒業して、ツーストロークとか本当に綺麗で、とにかく物凄いテクニシャンでしたよ。僕自身も結局ジョージさんと同じように全く独学のままでしたが、ドラム合戦の時は白木さんのドラムばかりを側でじっと見ていましたね。
―――ジョージさんのバンドボーイは1年くらいで卒業したんですね。
20歳になった時「いつまでもボーヤのままではいけない」と思い、ジョージさんに「今年で辞めさせてください」と伝えたの。このままズルズル続けていくと抜けられなくなるかもしれないと怖くなって。そうしたらジョージさんは自分が使っていたドラムの3点セットを「古いけどこれを使いなさい」って餞別にくれたんです。ホント、嬉しかったなあ。
―――ジョージさんの元から独立した後はどうされました?
何よりも先ずドラマーとしての演奏仕事探しが始まるんだけど、その頃にはバンド仲間も増えていたので、銀座松屋の裏にあったキャバレーのバンドに紹介してもらいました。当時はミュージシャン自体が少なかったから、その頃の大学卒サラリーマンの初任給が¥8,000ぐらいだったのに僕はペーペーで月¥9,000。そして腕が上がると「今のギャラより¥5,000アップするから店を移らないか?」なんて声が掛かるようになっていった。まあ、あくまでもキャバレーのバンドなのでお客さんがいる時はダンス音楽を演奏して、いない時だけジャズをやる感じでしたけどね。その内にギターの高柳昌行さんのところに遊びに行くようになって「新世紀音楽研究所」に関わるようになったり、当時大森に住んでいたので菊地のPooさんとの付き合いが始まり、やがて彼とピアノ・トリオを組むようになったり、富樫(雅彦)とも結構会っていたなぁ。まさに自分のジャズ人生における「青春時代」ですよ。
ジョージさんのボーヤ時代で忘れられないしくじりがあるんです。ある公演でバスドラムをセットする時にズレないようにバスドラの前にアンカーのような留め金具を打ちつけるのを忘れてしまったことがあって。今ならゴム製のストッパーが付いたマットの上にドラムを乗せるのでそんな心配は要りませんが、それを忘れてしまったせいでジョージさんがバスドラムを踏み込むとドラムセット自体がズルズルと前に動き始めて行く。これはマズイ!と思わずドラムの前に身を投げ出して、腹這いになったまま全身で抑えたんですが、ステージが終わった後にジョージさんから「馬鹿者!」って思いっきりドヤされました。それが本当に悔しくて、悔しくて、「よし、オレは絶対に上手いドラムになってやるぞ!」って心に誓ったのが、僕の「ジャズ事始め」かもしれないね。
>>>楽曲リンク
曲1:「ブルー・バイオリンズ」
https://www.youtube.com/watch?v=dz2cP_vwEbc
曲2:春日八郎「お富さん」
https://www.youtube.com/watch?v=9r5F_PM_bfE
曲3:笠置シズ子「東京ブギ」
https://www.youtube.com/watch?v=csuCvCnbdRg
曲4:灰田勝彦「鈴懸の径」
https://www.youtube.com/watch?v=Y9nI_6PgBTM
注1:トリス・ジャズ・ゲーム
1954年12月より壽屋(現サントリー)を協賛として文化放送から全国にネットされたラジオ番組。有楽町の「東京ヴィデオホール」で公開収録され、司会のロイ・ジェームスが客席からリクエストを募り、どんな曲でもビッグ・フォーが即興で演奏していった。Jazz at the Philharmonic (JATP)の日本版の意味を込め、番組のサブタイトルに「Jazz at the TORYS(JATT)が付されていた。
>>>アルバム情報
大友良英・山下洋輔・山崎比呂志
『Old and New Dreams chapter.2 破』
Live at新宿ピットイン 2025.12.27
DIW-949 3,000円(税込)
https://diskunion.net/jazz/ct/list/0/1992
謝明諺・山崎比呂志・大友良英・須川崇志
『Punctum Visus -視角-』
TEN-001 3,300円(税込)
https://diskunion.net/jazz/ct/detail/1009042026?srsltid=AfmBOoqWJw6xpiAwULiSVU9CK4McZvxvchEJ_V5kFEtcvugNbVgdj9K6